町静 作ること、そして語ること
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/
活動状況、日々の出来事、思うこと
peach
2014-04-08T10:57:44+09:00
ja
-
月に死す
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2014-04-08
関東にも大雪が降る前、年賀状すらさぼっていた私は雪の日の子供たちを絵に描いて、友人・知人に寒中見舞いとして出しました。前回のブログで紹介している絵ですが。そして雪の降った日の思い出を絵本に描こうなどども画策していましたが、あの豪雪のおかげで懲りてしまい、今は別の物語に取り組んでいます。実に変わった内容になるはずですが、わざとやっているのではなく、そうとしか描けないためです。出来上がるか、また出来上がったとしても、現在繋がりのある好意的な方たちが受け入れて出版して下さるかどうかも分かりませんので、お約束は出来ませんが、ただ少しずつ進んでいるようです。こんな私でも、元気づけてくれる人たちがいて、一緒に何かをやろうとか、本を作りましょうとか、言ってくださいます。私はただ絵や文章を描いてきただけ、いつまでものほほんとしているにもかかわらず、何故なのか、すでに一流の業績を持たれる方たちが気にかけてくださっているのには、まこと恐れ入ります。しかしそういうお気持ちを頂くたびに、私も一種衝動のように筆を執ります。そのほかには、夢の中で作品のビジョンを見るとき、それを形にしようという衝動がやはり起こります。今取り組んでいる物語もそうです。ビジョンがあり、話の筋があり、それを表現できるタッチでただ習作を行なっています。本制作は習作を繰り返す中で物語の調整が必要になる筈ですから、そのプロセスを経ながら次第に入って行くのだろうと思っています。いずれにしても、私は意志をもってそうしているのではなく、ただ自然に生まれて来るのに任せています。だからどうなるのか、私もわかりません。そういう在り方の中で、ビジョンの他に音楽を聞くことがたまにあります。幻聴ということになるのでしょうが、夢の終りに歌声と曲調、曲編成まで出来上がった状態で聞こえてきます。それで2、3年前でしょうか、女性のヴォーカルで聞こえてきた歌の話を昨日、たまたま友人にしましたら、歌が出来上がって聞こえるのはすごいというので、折角だから詩を補って完成させ、編曲も考えておきました。ただ、私は楽譜に落とせないので、メロディーは今のところお伝えできません。近いうちに友人かだれかに歌って聞かせて、譜面を書いておいてもらおうと思っています。演奏はお願い出来る伝手がありませんので実現しないかもしれませんが、ピアノ、バイオリンやチェロのような弦楽器と、ギター、ベース、ドラムがあればベストだと思いま..
その他
peach
2014-04-08T10:57:44+09:00
こんな私でも、元気づけてくれる人たちがいて、一緒に何かをやろうとか、本を作りましょうとか、言ってくださいます。私はただ絵や文章を描いてきただけ、いつまでものほほんとしているにもかかわらず、何故なのか、すでに一流の業績を持たれる方たちが気にかけてくださっているのには、まこと恐れ入ります。
しかしそういうお気持ちを頂くたびに、私も一種衝動のように筆を執ります。
そのほかには、夢の中で作品のビジョンを見るとき、それを形にしようという衝動がやはり起こります。今取り組んでいる物語もそうです。ビジョンがあり、話の筋があり、それを表現できるタッチでただ習作を行なっています。本制作は習作を繰り返す中で物語の調整が必要になる筈ですから、そのプロセスを経ながら次第に入って行くのだろうと思っています。いずれにしても、私は意志をもってそうしているのではなく、ただ自然に生まれて来るのに任せています。だからどうなるのか、私もわかりません。
そういう在り方の中で、ビジョンの他に音楽を聞くことがたまにあります。幻聴ということになるのでしょうが、夢の終りに歌声と曲調、曲編成まで出来上がった状態で聞こえてきます。それで2、3年前でしょうか、女性のヴォーカルで聞こえてきた歌の話を昨日、たまたま友人にしましたら、歌が出来上がって聞こえるのはすごいというので、折角だから詩を補って完成させ、編曲も考えておきました。ただ、私は楽譜に落とせないので、メロディーは今のところお伝えできません。近いうちに友人かだれかに歌って聞かせて、譜面を書いておいてもらおうと思っています。演奏はお願い出来る伝手がありませんので実現しないかもしれませんが、ピアノ、バイオリンやチェロのような弦楽器と、ギター、ベース、ドラムがあればベストだと思います。ちなみに曲調はいわゆる「バラード」に該当するでしょう。
その歌の詩は、次のようなものです。
『月に死す』 作詞・作曲 町 静
月にあっては 月に死す
空にあっては 空に死す
大地にあっては 大地に死す
それが きみの運命
いつも両腕(りょうて)を広げて立とう
風が吹き抜けるように
雨も 嵐も 星降る夜も
時空(とき)が 往き過ぎるままに
月にあっては 月に帰す
空にあっては 空に帰す
大地にあっては 大地に帰す
それが きみの生き方
だから夢よ 振るえないでね
桜舞い散る朝も
人の心も 街のさわぎも
すべて 聞こえぬように
だから夢よ 振るえないでね
光輝く瞬間(とき)も
きみの生命(いのち)が 尽きるその日も
静かに眠るときも
永遠(とわ)に
永遠に
永遠に
(hum…)
「死す」とは一般に歌われないタブーかもしれませんが、私の見た夢がこのように歌っていたので致し方がありません。そしてこの歌の意味は当時はわからなかったのですが、いまになって私に解釈できるものとなりました。この歌はもちろん希望の歌ではなく、絶望の果てになおも生きてゆく人を慰める歌なのです。本当に傷ついた人に、陽気な明るいだけの人がやってきて「元気を出しなよ、さあ踊ろう!」などと言って、その人は元気になるでしょうか? 簡単に言うとそういうことです。
「夢よ振るえないでね」とは、傷つくだけのはかない夢を二度と見ることがありませんように、夢がまたあの振動を始めることがありませんように、という願いを込めています。「なんだ? 現実主義になれということか?」と、ここも非常に誤解を招きやすいと思いますが、「夢」を「希望」または「欲望」と置き換えて見て下さい。希望や欲望を原動力に生きた結果、人は傷ついたり、人を傷つけたりするのではないでしょうか。社会的混乱も、闘争も、全て欲望が招いたものです。従って、絶望を真に知ることこそ安らかで全き道だとこの歌は言います。そしてこれは、現代の音楽シーンで誰も歌わない、そもそものはじめの仏教的な在り方でもあります。
歌なんか作ってないで真面目に絵を描けと言われそうですが、たまたま出来ただけなのでどうぞご勘弁を。
私のことを一応画家のはしくれと見て下さっている方も多いので、このブログにもできるだけ絵のことを載せたいと思いますが、絵画制作というのも私のある一面でしかないのです。これまで私の多くの時間は思索に費やされていました。実は私は学問としてはインド哲学を学んだ者なのです。しかしその知識が何かをもたらしたということはなく、長い長い思索、ぼんやり、そして不意に訪れる瞑想、日常生活のなかで、いつしか釈尊の原始仏教の真髄とされる部分に良く似たところに帰着するようになり、もはやそこから一歩も動けないところにいます。従って本当は私は何者かと言えば、何者でもありません。大袈裟にいうつもりもないのですが、強いて言えば、草や木のようなものです。花が咲けば皆さんにもお見せしましょう。実がなればみなさんにも食べてもらいましょう。その花は絵なんでしょうか、その果実は詩なんでしょうか? 私は知りません。でもそれが必要な人には何らかの示唆を与えるのかもしれません。私はただ咲かせ、実らせ、見守るだけです。
]]>
-
寒中お見舞い申し上げます
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2014-01-27
作品
peach
2014-01-27T10:41:03+09:00
]]>
-
町静展 出品作品6
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-18
今回の個展は広い会場を一人で有効に使えたのですが、一か所窓になっていて、そこに展示することは出来ないため、大きな三段棚を使用し、そこにフォトスタンドに入れた絵を展示しました。大小二種類の作品を会期の始まる直前に十数点描きました。すべてフォトスタンドのサイズに合わせて描きましたが、これらも本来なら額装したほうが良い作品たちです。しかし、そのコンパクトさからか、フォトスタンドのままお持ち帰りされるお客様が多かったです。というのも、絵画展ですと作品は通常会期終了後に購入者へ発送されますが、これらは敢えて会期中に即売という形にしたからです。以下作品ですが、あまりに短期間での制作・展示であったため、撮影する前に売れてしまったものはご紹介できません。これらは目録の番外にあり、今回はタイトルをつけていません。つければつけられますが、単純に同展の都合で無題にて展示即売したものです。これらは私のオートマティズム的素質が出ているもので、何も考えずに自動的に描かれたものです。絵画は多かれ少なかれそういう要素を含みますが、これらは典型的であると言えましょう。また、その自動的に描かれるというプロセスに感銘を受けられてご購入された方もおられました。私にしてみるとこういうものは十代のころからもともとあった能力なので、もっとも楽に制作できるのですが、「なぜこれが自動的にできるのか?」というところに不思議な感じを持たれる方も多いようです。以上が、今回の個展で作品として展示されたものです。そのほか、これらのラインナップをマグカップ、エコバッグ、ポストカードにしたグッズがありました。これらも撮影が難しいのでアップしません。マグなど私もまだ使っていませんが、さっそく使っているという連絡を、その写真入りで送ってくれた方がおり、気に入ってくださっているようでなによりです。
作品
peach
2013-12-18T21:46:51+09:00
というのも、絵画展ですと作品は通常会期終了後に購入者へ発送されますが、これらは敢えて会期中に即売という形にしたからです。以下作品ですが、あまりに短期間での制作・展示であったため、撮影する前に売れてしまったものはご紹介できません。
これらは目録の番外にあり、今回はタイトルをつけていません。つければつけられますが、単純に同展の都合で無題にて展示即売したものです。これらは私のオートマティズム的素質が出ているもので、何も考えずに自動的に描かれたものです。絵画は多かれ少なかれそういう要素を含みますが、これらは典型的であると言えましょう。また、その自動的に描かれるというプロセスに感銘を受けられてご購入された方もおられました。私にしてみるとこういうものは十代のころからもともとあった能力なので、もっとも楽に制作できるのですが、「なぜこれが自動的にできるのか?」というところに不思議な感じを持たれる方も多いようです。
以上が、今回の個展で作品として展示されたものです。
そのほか、これらのラインナップをマグカップ、エコバッグ、ポストカードにしたグッズがありました。これらも撮影が難しいのでアップしません。マグなど私もまだ使っていませんが、さっそく使っているという連絡を、その写真入りで送ってくれた方がおり、気に入ってくださっているようでなによりです。
]]>
-
町静展 出品作品5
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-15
今日はタブローの続きとその他を紹介してゆきます。目録No.6 発砲 2013年 アクリル、キャンバス 530×455mm発砲したい衝動、別に誰かを狙撃するわけではなく、ただドカンと一発打ち放したい欲求というのは多くの人の中にあるのではないでしょうか。作中の人は手が大砲、または銃になっています。尻尾もあり、地球の人間ではないようです。架空の世界だからこそ街中での発砲も派手に出来ます。私はこうやってストレスを解消しているのかもしれません。目録No.8 宇宙の子牛 2013年 アクリル・砂、キャンバス 530×455mm宇宙の、という割には雲が浮いていて適当ですが、あくまでもイメージです。この作品の子牛の部分に採用したおつゆ描きが役立って、「発砲」や以下に紹介する「立てる男」などが生まれました。おつゆ描きとはその名の通り、絵具をたくさんの水で溶くことによって、滲みや微妙な濃淡を生もうとする技法です。奈良美智さんの作品などは一見簡単に塗っているようにも見えますが、実際は一度塗った色の上に、水をたくさん使って薄めた絵具をかぶせて色を調整しています。目録No.8 木の猫 2011年 455×530mm アクリル・石膏、キャンバス第29回ザ・チョイス年度賞入賞作。大橋歩さんがこれを選んで下さったおかげで、現在の交友関係があると言えます。近年のタブローの全てがここから始まっており、キャンバスに描いて仕上げたのも初めての作品だったのにも関わらず、このたった一枚が私の生活環境を変えました。当時私は黒い猫が宇宙からやって来て、一人の画家の運命を変えてしまうという内容の変な小説をブログに連載していました(いまも消していません)が、書いているうちに現実が小説の通りになり、戸惑って現在は未完のままストップしています。「人はその人の考えていることの結果である」ということを身をもって体験しました。とにかくこの絵は作者にとっても実に不思議な作品なのです。現在は所有者がいて、今回は非売品として出品しています。目録No.9 エウロパ、私はまだここにいるのだ 2013年 アクリル・石膏・砂、キャンバス727×606mm木星の衛星、エウロパには生命がある可能性が高いと言われてきました。映画「2010年」でも、モノリスからのメッセージに「宇宙を自由に開拓して良いが、エウロパは除く、エウロパに着陸を試みてはならない」とあります。私は常々、自分はなぜ地球にいる..
作品
peach
2013-12-15T21:25:31+09:00
目録No.6 発砲 2013年 アクリル、キャンバス 530×455mm
発砲したい衝動、別に誰かを狙撃するわけではなく、ただドカンと一発打ち放したい欲求というのは多くの人の中にあるのではないでしょうか。作中の人は手が大砲、または銃になっています。尻尾もあり、地球の人間ではないようです。架空の世界だからこそ街中での発砲も派手に出来ます。私はこうやってストレスを解消しているのかもしれません。
目録No.8 宇宙の子牛 2013年 アクリル・砂、キャンバス 530×455mm
宇宙の、という割には雲が浮いていて適当ですが、あくまでもイメージです。この作品の子牛の部分に採用したおつゆ描きが役立って、「発砲」や以下に紹介する「立てる男」などが生まれました。おつゆ描きとはその名の通り、絵具をたくさんの水で溶くことによって、滲みや微妙な濃淡を生もうとする技法です。奈良美智さんの作品などは一見簡単に塗っているようにも見えますが、実際は一度塗った色の上に、水をたくさん使って薄めた絵具をかぶせて色を調整しています。
目録No.8 木の猫 2011年 455×530mm アクリル・石膏、キャンバス
第29回ザ・チョイス年度賞入賞作。大橋歩さんがこれを選んで下さったおかげで、現在の交友関係があると言えます。近年のタブローの全てがここから始まっており、キャンバスに描いて仕上げたのも初めての作品だったのにも関わらず、このたった一枚が私の生活環境を変えました。当時私は黒い猫が宇宙からやって来て、一人の画家の運命を変えてしまうという内容の変な小説をブログに連載していました(いまも消していません)が、書いているうちに現実が小説の通りになり、戸惑って現在は未完のままストップしています。「人はその人の考えていることの結果である」ということを身をもって体験しました。とにかくこの絵は作者にとっても実に不思議な作品なのです。現在は所有者がいて、今回は非売品として出品しています。
目録No.9 エウロパ、私はまだここにいるのだ 2013年 アクリル・石膏・砂、キャンバス727×606mm
木星の衛星、エウロパには生命がある可能性が高いと言われてきました。映画「2010年」でも、モノリスからのメッセージに「宇宙を自由に開拓して良いが、エウロパは除く、エウロパに着陸を試みてはならない」とあります。私は常々、自分はなぜ地球にいるのかとても疑問だったので、地球外というところにとても関心があります。描くという孤独な作業の中では、ときどき「こんな変わった絵を描くのは、自分が地球外から来たからにちがいない」という感覚に陥ります。そういうとき、エウロパにいる存在の声が聞こえるような気がするのです。
目録No.10 立てる男 2013年 アクリル・石膏・砂、キャンバス 910×727mm
ボクシングは子供の時から好きで、よく具志堅用高の防衛戦などを見ていました。この絵も最初はボクサーを描くつもりではなかったのですが、構図上の面白さから手にグローブをはめてみました。するとボクサーがよろよろと立ちあがったような感じになったので、「立てる男」としたのです。あまり強そうではないことも気に入っています。また、大きさもかなりあるため、今回の展示の中心的存在となりました。見る人が見れば面白い絵、自分の中に「絵とは、芸術とはこういうもの」という観念が出来上がってしまっている人には単に変な絵、ということになりましょう。絵の成り立ち、私という人間を含めて、吟味して頂ければ、この絵の面白さも伝わると思いますが、とかく世の中ゆっくりと絵を鑑賞するだけの素質を持った人、あるいは心のゆとりのある人は少なくなりました。「生きること=あくせく働くこと」という公式が日本の99パーセントの人々の中にあるようです。搾取の歴史の中にあり、さらに敗戦を経験したために完全に価値観が物質至上主義に固まってしまいました。しかし、現在社会に適合できないような若い人たちのなかに、逆に私は可能性を見ています。彼らはこの世界がおかしい、変だということをはじめから見破っているのです。この世界を支配している層には、この世界は都合よく出来ていますが、彼らが何をしようと逆に世界を混乱させるだけでしょう。しかしいわゆる不適合者が現実を直視した上で、打ちのめされた上でなお、彼らとしてあり続けるときには、世界は変わると私は見ています。
目録No.11 横向きの猫 2013年 アクリル、キャンバス 180×140mm
小品ですがやたらと時間をかけています。描いている中でこれは何なのかということを考えます。それが猫に見えれば猫ということにします。私はシュールレアリスムで言えば、オートマティズムという、自動的に描くという方法から始めていますから、出だしは何を描くか決めていないことがほとんどです。最近では構図が決まればそれに沿って仕上げていくことが多くなりましたが、今後また仕上がりの予測不可能な制作方法に移って行くかもしれません。
目録No.12 ブラインドの向こうの男 2013年 アクリル、キャンバス 350×270mm
構造的興味から制作したものですが、仕上がってみるとブラインドの向こうに見える人の姿に見えてきたので、このタイトルをつけました。一見デジタルな感じに見えると、人から言われましたが、筆で時間をかけて塗り込んでいます。こういうのは古くはモンドリアン、ライリーだとか、オノサト・トシノブなどがあげられると思いますが、もちろんどれも私の主題ではなく、あくまでも実験であり通過点です。しかし作品としてはボックス額に入れたところ、飾って頂いて美しく、楽しめるものになっていると思います。大きさも比較的コンパクトで飾りやすいと思います。
目録No.13 無題 2007年 アクリル・コラージュ、ダンボール 178×320mm
版画をやっていたころから比べると、ここが変化点になっていると言えます。鮮やかな色彩、複雑な描き込み、そのプロトタイプとして、ダンボールに着彩したものですが、愛着があったので特注額に入れてあります。
目録No.14 君は蝶をつかまえた 2008年 アクリル・写真・コラージュ、紙
※小品ですが額一体型作品で撮影が難しい上、個人様の所蔵品ですので、もう私の手元になく、今回はアップしません。
目録No.15 秋の庭 2007年 アクリル・コラージュ、紙 530×645mm
No.13の「無題」という作品の延長にありますが、大きさが大きいです。完全な抽象に近いと思いますが、雰囲気として秋の庭を思わせるので、このタイトルです。こういった作品が、タブローの「立てる男」他の作品の中で行ったことと相まって、今後新しい作品となって現われて来ると思っています。多くの人は前はこういう絵を描いていたのに、どうして今はこういう絵なのですか?というようなことを聞いてきたりします。画家は一つのスタイルを描くものだと思っているようですが、私には変化する必要、経験する必要があるのです。
目録No.16 月のみやげ 2007年 アクリル・モルタル・コラージュ、板
※こちらは手元にありますが、額一体型作品で、撮影がうまく出来ません。月で拾って来たかのような岩石的な作品を標本箱に入れたような作品で、結構面白いものですが、アップはしません。
目録No.17 Hand 1986年 リノカット
※現存する最古の私の作品であり、高校生のころのもの。今回特殊なスペースが空いたので、展示しましたが、撮影する気もなくアップもしません。
目録No.18 陰陽 1987年 アクリル他、ダンボール
※これも最古の作品のひとつですが、上記と同じくアップはしません。
以上が目録のラインナップでした。次回は、番外ではありますが、今回の展示のために描きおろしたフォトスタンドアートというのがありましたので、そちらを紹介してみたいと思います。
]]>
-
町静展 出品作品4
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-13
さて、今日はタブローをご紹介してゆきたいと思います。目録No.1 雪の日 2012年 アクリル、キャンバス 180×140mm0号の小品ですが、時間がかかっています。黒をベースに構成しています。横顔を描いたものですが、バックの林の向こうに雪山が見えるのでこのタイトルを付けました。アクリルのみで描いていますが、実物はかなり重厚な印象を与えます。あまり見かけない効果が出ているようで、他の作家さんからも「どうやって描いたの?」と聞かれますが、特別な技法ではありません。ただ筆遣いは筆を転がすようなタッチを使っています。目録No.2 田の鳥 2012年 アクリル・砂、キャンバス 410×318mm 以前このブログでも紹介したことがあります。絵具の引っかかりをよくするために砂を使用しています。一種の盛上げ剤のようなものも使用し、バランスをとっています。白がバックにあるので明るく、色遣いが子供っぽくなっていますが、これが好きなお客様は多かったです。わかりやすさもあるでしょう。目録No.3 林の中の象 2012年 アクリル・砂、キャンバス 380×455mmこれも以前紹介したので覚えている方もいらっしゃるでしょう。技法というよりも色の配置、モチーフの扱い方が特殊な作品です。一見したところ何が描いてあるかわからない感じ、というのも狙いでした。何にせよ、ありがちな「まんま」の表現は陳腐ということになってしまいます。そういうほうが一般には好まれるのですが、私の道ではありません。目録No.4 象 2012年 アクリル・砂、キャンバス 530×455mmこれも「林の中の象」と同じく、一見何が描いてあるかわからないように描いてあります。構図もわざと尻尾と鼻を切っています。あまり黒を使用しないで描いたところが、この作品の取り組みの主要な点でもありました。よりモチーフが見出しにくい代わりにタイトルは敢えてそのものズバリ、「象」としました。目録No.5 紅い実 2012年 アクリル、キャンバス 318×410mmアクリルだけで描いたフラットな作品です。私にしては珍しく、オオハシという実在の鳥を描きました。動物園などで見て好きな鳥だったからです。実際はこんな紅い実を食べるか知りません。背景は完全に空想です。この作品は技法的な関心から制作したもので、作風はむしろ平凡になってしまっているかもしれません。あくまでも自己批判ですが。以上は私が幹事を務めて、..
作品
peach
2013-12-13T13:36:55+09:00
目録No.1 雪の日 2012年 アクリル、キャンバス 180×140mm
0号の小品ですが、時間がかかっています。黒をベースに構成しています。横顔を描いたものですが、バックの林の向こうに雪山が見えるのでこのタイトルを付けました。アクリルのみで描いていますが、実物はかなり重厚な印象を与えます。あまり見かけない効果が出ているようで、他の作家さんからも「どうやって描いたの?」と聞かれますが、特別な技法ではありません。ただ筆遣いは筆を転がすようなタッチを使っています。
目録No.2 田の鳥 2012年 アクリル・砂、キャンバス 410×318mm
以前このブログでも紹介したことがあります。絵具の引っかかりをよくするために砂を使用しています。一種の盛上げ剤のようなものも使用し、バランスをとっています。白がバックにあるので明るく、色遣いが子供っぽくなっていますが、これが好きなお客様は多かったです。わかりやすさもあるでしょう。
目録No.3 林の中の象 2012年 アクリル・砂、キャンバス 380×455mm
これも以前紹介したので覚えている方もいらっしゃるでしょう。技法というよりも色の配置、モチーフの扱い方が特殊な作品です。一見したところ何が描いてあるかわからない感じ、というのも狙いでした。何にせよ、ありがちな「まんま」の表現は陳腐ということになってしまいます。そういうほうが一般には好まれるのですが、私の道ではありません。
目録No.4 象 2012年 アクリル・砂、キャンバス 530×455mm
これも「林の中の象」と同じく、一見何が描いてあるかわからないように描いてあります。構図もわざと尻尾と鼻を切っています。あまり黒を使用しないで描いたところが、この作品の取り組みの主要な点でもありました。よりモチーフが見出しにくい代わりにタイトルは敢えてそのものズバリ、「象」としました。
目録No.5 紅い実 2012年 アクリル、キャンバス 318×410mm
アクリルだけで描いたフラットな作品です。私にしては珍しく、オオハシという実在の鳥を描きました。動物園などで見て好きな鳥だったからです。実際はこんな紅い実を食べるか知りません。背景は完全に空想です。この作品は技法的な関心から制作したもので、作風はむしろ平凡になってしまっているかもしれません。あくまでも自己批判ですが。
以上は私が幹事を務めて、菊池日出夫さんや石川えりこさんと一緒に、ザ・チョイスの受賞メンバーで行ったパシフィコ横浜での2012年のグループ展、「風山村2012」にも出品した作品で、このほかに受賞作「木の猫」がありました。
次回タブローの続きをアップしてゆきます。
]]>
-
町静展 出品作品3
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-08
今日は個展出品作品の中から、旧作版画小品の3回目です。目録No.27 現実の形姿 1997年 多色刷り木版 105×123mm主版に黒を使用した、多くの方には版画としてなじみのあるスタイルです。私は陰刻(彫った部分が黒い線となって現れる手法)といって、小野忠重氏がやっていたような版画から入っているので、こういう陽刻作品はあまり制作していないのです。「現実の形姿」とは、仕上がりが現実離れしたポーズになっているので、逆に目に見えない本来の「現実」の人の形とはこうなんだよ、という意味で敢えてつけたタイトルです。個展にいらした菊池日出夫さんが「なんかいいね、これ」となぜか気に入っておられました。残20点です。目録No.28 猫 1997年 多色刷り木版 85×90mmこれも数少ない陽刻作品のひとつです。「現実の形姿」より前だったのかと思いますが、記憶が曖昧です。残30点です。目録No.29 連結貨車 1993年 モノタイプ 130×242mm極めて横長の版画作品。古い時代のものです。東京に住んでいたころ、刷ろうと思ったら紙が足りなくなって、二枚の黒いラシャをつなぎ合わせて刷ったものです。後から筆で加筆して仕上げています。あのころはあからさまに社会からはみ出していました。やがてさまざまな職種を経験しながらうまく折り合いをつけられるようになったつもりが、長い時間をかけて自分の特異性をこれでもかと思い知らされただけでした。そして結局今も描くしかないのです。目録No.30 卓上の静物 1999年 多色刷り木版 89×87mmよくある静物画のようですが、瓶が浮き上がっています。見たままには決して描かないのだけはそもそものはじめから一貫した私の特徴です。残5点となりました。次回より近作のタブローをご紹介してゆきます。
作品
peach
2013-12-08T22:33:41+09:00
目録No.27 現実の形姿 1997年 多色刷り木版 105×123mm
主版に黒を使用した、多くの方には版画としてなじみのあるスタイルです。私は陰刻(彫った部分が黒い線となって現れる手法)といって、小野忠重氏がやっていたような版画から入っているので、こういう陽刻作品はあまり制作していないのです。「現実の形姿」とは、仕上がりが現実離れしたポーズになっているので、逆に目に見えない本来の「現実」の人の形とはこうなんだよ、という意味で敢えてつけたタイトルです。個展にいらした菊池日出夫さんが「なんかいいね、これ」となぜか気に入っておられました。残20点です。
目録No.28 猫 1997年 多色刷り木版 85×90mm
これも数少ない陽刻作品のひとつです。「現実の形姿」より前だったのかと思いますが、記憶が曖昧です。残30点です。
目録No.29 連結貨車 1993年 モノタイプ 130×242mm
極めて横長の版画作品。古い時代のものです。東京に住んでいたころ、刷ろうと思ったら紙が足りなくなって、二枚の黒いラシャをつなぎ合わせて刷ったものです。後から筆で加筆して仕上げています。あのころはあからさまに社会からはみ出していました。やがてさまざまな職種を経験しながらうまく折り合いをつけられるようになったつもりが、長い時間をかけて自分の特異性をこれでもかと思い知らされただけでした。そして結局今も描くしかないのです。
目録No.30 卓上の静物 1999年 多色刷り木版 89×87mm
よくある静物画のようですが、瓶が浮き上がっています。見たままには決して描かないのだけはそもそものはじめから一貫した私の特徴です。残5点となりました。
次回より近作のタブローをご紹介してゆきます。
]]>
-
町静展 出品作品2
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-07
先日まで開催していた私の個展から、今日は旧作版画小品の2回目です。目録No.23 秋の道 1999年 140×118mm 多色刷り木版猫を擬人化した作品で、版画イラストなどを考えていたころのものです。作風はかなり単純なのですが、そのわかりやすさからか、人気が高い作品です。残3点。目録No.24 頬杖つく女 2000年 88×90mm 多色刷り木版題材が女性というのは私の作品ではあまりありません。さらに美人に描くということにも興味がなく、単に一枚の絵として成立すればよいという感覚で制作しています。版画作品中でも珍しくピンク色で人物をオーラのように象ったところがこの作品の特徴でしょうか。こちらも残3点です。目録No.25 夜の家 1997年 50×70mm 多色刷り木版極小の版画作品です。夜のひっそりとした雰囲気の中に建つ白壁の家を描いたもので、残18点あります。目録No.26 夕暮れの人たち 1997年 87×87mm 多色刷り木版一枚の版を彫りながら刷ってゆくという、リダクション法を採用した最初期の作品だと思います。20代前半だったころ、版画をはじめたての私の作品をかなり高額で購入してくれた方へ、久しぶりにお会いした記念に差し上げたことのある小品です。今版画を制作するならこの流れかな?と思えるくらい、作品としての可能性を秘めていると私は思っていますが、抽象的になればなるほど一般的なお客様の引き合いは弱くなるのは、昔からやむを得ないのでしょうか。残5点です。次回、残りの版画作品を紹介します。そのあとタブローの近作を紹介してゆくつもりです。
作品
peach
2013-12-07T15:06:41+09:00
目録No.23 秋の道 1999年 140×118mm 多色刷り木版
猫を擬人化した作品で、版画イラストなどを考えていたころのものです。作風はかなり単純なのですが、そのわかりやすさからか、人気が高い作品です。残3点。
目録No.24 頬杖つく女 2000年 88×90mm 多色刷り木版
題材が女性というのは私の作品ではあまりありません。さらに美人に描くということにも興味がなく、単に一枚の絵として成立すればよいという感覚で制作しています。版画作品中でも珍しくピンク色で人物をオーラのように象ったところがこの作品の特徴でしょうか。こちらも残3点です。
目録No.25 夜の家 1997年 50×70mm 多色刷り木版
極小の版画作品です。夜のひっそりとした雰囲気の中に建つ白壁の家を描いたもので、残18点あります。
目録No.26 夕暮れの人たち 1997年 87×87mm 多色刷り木版
一枚の版を彫りながら刷ってゆくという、リダクション法を採用した最初期の作品だと思います。20代前半だったころ、版画をはじめたての私の作品をかなり高額で購入してくれた方へ、久しぶりにお会いした記念に差し上げたことのある小品です。今版画を制作するならこの流れかな?と思えるくらい、作品としての可能性を秘めていると私は思っていますが、抽象的になればなるほど一般的なお客様の引き合いは弱くなるのは、昔からやむを得ないのでしょうか。残5点です。
次回、残りの版画作品を紹介します。そのあとタブローの近作を紹介してゆくつもりです。
]]>
-
町静展 出品作品
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-12-05
12月2日をもちまして、私の個展が終了しました。ご来場の皆様、作品などお買い上げの皆様、ありがとうございました。会期終了につき、これから手元に写真のある作品についてはアップしてゆこうと思っています。まず、2000年前後またはそれ以前に私が取り組んでいた版画作品をご紹介します。現在のものとはだいぶ異なりますが、今回会場が特殊で、和室の壁などのほか床の間などをも利用するにあたり、さまざまな種類・年代の作品に分けての展示を試みました。そして床の間は版画作品、それも特に小さい版画作品のみの間としました。以下作品です。目録 No.19 北風の家路 2001年、多色刷り木版 115×200mm刷りながら一枚の版で彫り進んでゆく、リダクション法を取り入れたころの作品だったと思います。晴れていながらも寒い日、マフラーを風になびかせて、「早く家であったまりたいな」などと思いながら坂道を登ってゆく人の情景を描いたものです。私の版画の中でも人気が高く、あと2点しか残っていません。目録 No.20 帰り途 2000年、多色刷り木版 150×200mmこちらも家に帰るというシチュエーションを描いたものですが、主人公は自転車に乗っています。バックは夕焼けで、この人は仕事帰りなんだろうか?町工場かどこかで働いてきたのかな?帰ったらあったかいシチューとか食べるのかな?といった物語を連想する方が多いようです。今回お買い上げいただいた方もそのような物語を思うと言っておられました。こちらも所有されている方がすでにいらっしゃったり、あと4点を残すのみとなりました。目録のNo.21に、「走る子供」というモノタイプ作品がありましたが、撮影するのを忘れていたようで、現在のところ画像がありません。目録No.22 雪の街 2001年、多色刷り木版 120×110mmこのころは、寒い情景をよく描いていたようです。とくに白い息を描きたくてこれを制作したのを覚えています。あとは雪の点々とちりばめられた白ですかね。以前、雪深い街、札幌に住む友人にもこれを贈りました。残り3点です。解説を書きながらだと長くなるので、続きはまたにします。
作品
peach
2013-12-05T12:41:59+09:00
ご来場の皆様、作品などお買い上げの皆様、ありがとうございました。
会期終了につき、これから手元に写真のある作品についてはアップしてゆこうと思っています。
まず、2000年前後またはそれ以前に私が取り組んでいた版画作品をご紹介します。
現在のものとはだいぶ異なりますが、今回会場が特殊で、和室の壁などのほか床の間などをも利用するにあたり、さまざまな種類・年代の作品に分けての展示を試みました。そして床の間は版画作品、それも特に小さい版画作品のみの間としました。以下作品です。
目録 No.19 北風の家路 2001年、多色刷り木版 115×200mm
刷りながら一枚の版で彫り進んでゆく、リダクション法を取り入れたころの作品だったと思います。晴れていながらも寒い日、マフラーを風になびかせて、「早く家であったまりたいな」などと思いながら坂道を登ってゆく人の情景を描いたものです。私の版画の中でも人気が高く、あと2点しか残っていません。
目録 No.20 帰り途 2000年、多色刷り木版 150×200mm
こちらも家に帰るというシチュエーションを描いたものですが、主人公は自転車に乗っています。バックは夕焼けで、この人は仕事帰りなんだろうか?町工場かどこかで働いてきたのかな?帰ったらあったかいシチューとか食べるのかな?といった物語を連想する方が多いようです。今回お買い上げいただいた方もそのような物語を思うと言っておられました。こちらも所有されている方がすでにいらっしゃったり、あと4点を残すのみとなりました。
目録のNo.21に、「走る子供」というモノタイプ作品がありましたが、撮影するのを忘れていたようで、現在のところ画像がありません。
目録No.22 雪の街 2001年、多色刷り木版 120×110mm
このころは、寒い情景をよく描いていたようです。とくに白い息を描きたくてこれを制作したのを覚えています。あとは雪の点々とちりばめられた白ですかね。以前、雪深い街、札幌に住む友人にもこれを贈りました。残り3点です。
解説を書きながらだと長くなるので、続きはまたにします。
]]>
-
町静展 開催状況
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-11-24
私の個展は現在開催中、日程は下記のとおりです。町 静 展 「試」~kokoromi~会場:家具スタジオ 木の香 埼玉県比企郡小川町角山216-1 TEL0493-74-6588http://www.kinoka.com会期:2013年11月22日(金)~12月2日(月)10:00~17:00(木曜休場、最終日16:00閉場)おかげさまで好評です。作品もグッズも売れ、一安心しています。ご来場の皆さま、感謝致します。さて遠方でご来場頂けない方に、雰囲気だけでもという思いから、今日は会場内の写真を添付します。家具スタジオ木の香とは、民家を利用したギャラリーであり、常設で家具や民芸品の展示販売を行う傍ら、企画展を行っており、現在は私の個展がそれにあたります。古い日本家屋の漆喰の壁と、私のような現代?アートの対照的な感じが却って良いね、と言われています。上は近作のタブローです。初日に友人の弁護士、大竹夏夫君が素晴らしいお花を送ってくれました。広々した会場にピンクの大きな花が映えます。大竹君、本当にありがとう!その向こうにあるのは私が以前主として取り組んでいた多色刷り木版画の小品たちです。スタジオの提案で、雛段飾りを採用しました。押入れスペースを利用した展示もグッズなどをおいて面白い展示が出来ました。オリジナルマグカップは美しい仕上がりで、良く売れています。これらは即売品のフォトスタンドアート、買ったその日に持ち帰っていただくことができ、すでに一枚減っています。別途額装して引き渡すこともできます。今回、現存する私の最古の作品として、この二点を置いてみました。名付けて「原初の間」。そのようなわけで、順調に進んでいます。久しぶりに会う人物も多く、また今後の仕事についても進展があり、実り多いものになっています。今日は絵本作家の菊池日出夫さんや、イラストレーターの小輪瀬護安くんが来てくれました。まだまだ日数もあります。お近くの方はお立ち寄りください。
ご報告
peach
2013-11-24T23:31:49+09:00
町 静 展 「試」~kokoromi~
会場:家具スタジオ 木の香
埼玉県比企郡小川町角山216-1 TEL0493-74-6588
http://www.kinoka.com
会期:2013年11月22日(金)~12月2日(月)
10:00~17:00(木曜休場、最終日16:00閉場)
おかげさまで好評です。作品もグッズも売れ、一安心しています。
ご来場の皆さま、感謝致します。
さて遠方でご来場頂けない方に、雰囲気だけでもという思いから、
今日は会場内の写真を添付します。
家具スタジオ木の香とは、民家を利用したギャラリーであり、常設で家具や民芸品の展示販売を行う傍ら、企画展を行っており、現在は私の個展がそれにあたります。
古い日本家屋の漆喰の壁と、私のような現代?アートの対照的な感じが却って良いね、と言われています。上は近作のタブローです。
初日に友人の弁護士、大竹夏夫君が素晴らしいお花を送ってくれました。広々した会場にピンクの大きな花が映えます。大竹君、本当にありがとう!
その向こうにあるのは私が以前主として取り組んでいた多色刷り木版画の小品たちです。スタジオの提案で、雛段飾りを採用しました。
押入れスペースを利用した展示もグッズなどをおいて面白い展示が出来ました。
オリジナルマグカップは美しい仕上がりで、良く売れています。
これらは即売品のフォトスタンドアート、買ったその日に持ち帰っていただくことができ、
すでに一枚減っています。別途額装して引き渡すこともできます。
今回、現存する私の最古の作品として、この二点を置いてみました。
名付けて「原初の間」。
そのようなわけで、順調に進んでいます。
久しぶりに会う人物も多く、また今後の仕事についても進展があり、実り多いものになっています。今日は絵本作家の菊池日出夫さんや、イラストレーターの小輪瀬護安くんが来てくれました。
まだまだ日数もあります。お近くの方はお立ち寄りください。
]]>
-
町静展のご案内
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-11-05
下記の日程で私の個展があります。町 静 展 「試」~kokoromi~会場:家具スタジオ 木の香 埼玉県比企郡小川町角山216-1 TEL0493-74-6588 http://www.kinoka.com会期:2013年11月22日(金)~12月2日(月)10:00~17:00(木曜休場、最終日16:00閉場)よろしくお願いいたします。
ご報告
peach
2013-11-05T17:23:04+09:00
町 静 展 「試」~kokoromi~
会場:家具スタジオ 木の香
埼玉県比企郡小川町角山216-1 TEL0493-74-6588
http://www.kinoka.com
会期:2013年11月22日(金)~12月2日(月)
10:00~17:00(木曜休場、最終日16:00閉場)
よろしくお願いいたします。
]]>
-
石川えりこ展 「炭坑のある町でそだった」
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-10-08
昨日青山のギャラリーMayaで、石川えりこさんの個展のオープニングレセプションに出席して来た。石川さんの作品は自由闊達な筆遣いが特徴だが、今回のシリーズは鉛筆画。鉛筆画というと色彩を使ったものより軽いものを想像しがちだが、全く違った。むしろ、石川さんの育った炭坑のある町、という子供時代の環境がバックグラウンドになって、より一層の深みと迫力をもって語りかけてくるのである。以前、大江健三郎氏がTVで、バックグラウンドを持っている作家は強いんです、と言っていた。その意味が、ひとりの画家を通じてわかった気がした。親しくしている菊池日出夫さんにしても、長野県佐久市で過ごした少年時代が一貫したモチーフになっていて、それが見る人にある種共通した懐かしさを感じさせるのだろう。根強いファン層を持っているのも頷ける。MayaにはMaya2という別室があって、そこに案内してくれたのは篠崎三朗さんだった。篠崎さんには横浜の展示会のときにお世話になった。「その節は…」などと挨拶しながら入るとアーテイストと業界関係者で超満員だった。すでに数名の知人も来ており近況の報告をし合ったり、いろいろな人を紹介してもらった。こういう集まりは本当に面白い人でいっぱいだ。とくにアーティストは著名人でも垣根がないのが良い。子供のように自由で気さく、つまらないお世辞を言う必要もなければ、緊張することもない。それぞれがそれぞれをありのままにふるまわせてくれる、そういう空間があった。結局レセプションの後も外苑前のカフェで楽しく盛り上がり、帰って来た。ときどきこういう賑やかな集まりにゆくのはいいものだ。そしてどの人もみな、また会いたい人たちだ。
エッセイ
peach
2013-10-09T00:03:47+09:00
石川さんの作品は自由闊達な筆遣いが特徴だが、今回のシリーズは鉛筆画。鉛筆画というと色彩を使ったものより軽いものを想像しがちだが、全く違った。むしろ、石川さんの育った炭坑のある町、という子供時代の環境がバックグラウンドになって、より一層の深みと迫力をもって語りかけてくるのである。以前、大江健三郎氏がTVで、バックグラウンドを持っている作家は強いんです、と言っていた。その意味が、ひとりの画家を通じてわかった気がした。
親しくしている菊池日出夫さんにしても、長野県佐久市で過ごした少年時代が一貫したモチーフになっていて、それが見る人にある種共通した懐かしさを感じさせるのだろう。根強いファン層を持っているのも頷ける。
MayaにはMaya2という別室があって、そこに案内してくれたのは篠崎三朗さんだった。篠崎さんには横浜の展示会のときにお世話になった。「その節は…」などと挨拶しながら入るとアーテイストと業界関係者で超満員だった。すでに数名の知人も来ており近況の報告をし合ったり、いろいろな人を紹介してもらった。こういう集まりは本当に面白い人でいっぱいだ。とくにアーティストは著名人でも垣根がないのが良い。子供のように自由で気さく、つまらないお世辞を言う必要もなければ、緊張することもない。それぞれがそれぞれをありのままにふるまわせてくれる、そういう空間があった。
結局レセプションの後も外苑前のカフェで楽しく盛り上がり、帰って来た。ときどきこういう賑やかな集まりにゆくのはいいものだ。そしてどの人もみな、また会いたい人たちだ。
]]>
-
宇宙の構造を思う
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-10-02
私はほとんど子供を叱ることがないが、それでも子供の方は親をこの上なくうざったい存在だと思っているようで、平気で酷い言葉を浴びせて来る。とくに自分だけの世界に入り込んでいる時は邪魔されたくないようだ。私がそうだったからわかる。親の家に住み、親から貰った服を着て、親の買ってあげた食べ物を食べながら悪態をつく矛盾は何処から来るのか?答えはこうである。彼らは自分で望んでここに生まれてきたことを忘れており、別の世界に魂だけで存在していたころの自由に帰ろうとしているのだ。その別の世界が垣間見えるものに夢中になるが、現実に帰ると相も変わらずなことに心底うんざりする。親など最も現実を反映しているからなおさらだ。だが、思春期ぐらいの子供は、そろそろ自由を取り戻すための方法を模索し始めるころだ。そこにも邪魔の入らない思考空間が必要なのであり、単に現実逃避に見えるようでも、現実に対処しようとしはじめている部分がある。そして現実逃避という自由への渇望にとどまらず、自由の獲得へと歩みを進めてゆく時、彼は自己を拡大してゆくのだ。この過程で恐怖に支配されると、自己を縮小することによってしか現実に対処することが出来なくなってしまう。その、多くの大人がはまり込んでいる罠にみすみすはまってほしくないので、私は現実が厳しいとか、罰があたるとか、そんなだといずれ不幸になるとかいう説き方をしないのである。彼らはこのまま怖れることなく生きてゆけば良いのだ。だがいずれは学びのための痛みは知ることになるだろう。それでも決して恐れてはならないのだ。広い見方をすると、地球の一部であるにもかかわらず、その恩恵を忘れている人間はみな、思春期の子供と変わらないのではないだろうか。人も成熟すれば地球と一体となった日々を送れるようになる。地球とは便宜上そう言っただけで、本当は宇宙と置き換えても良い。全体とも言う。全体の一部が全体を呪っても仕方ないのである。それよりも全体を理解することにより、その構造に精通することが肝要だ。その構造について私の理解していることを書くだけでも一生かかるので書かないが、それは多くの人が認識しているような形の物ではない。また、多くの人は構造について考えたこともないだろう。それはひとくちで言えば複雑かつシンプルな構造だ。それを描写するには無限の時間が必要だが、それを生きるには一瞬も必要ではない。禅の考案をやっているのではない。事実そうなのだ。
エッセイ
peach
2013-10-02T03:23:53+09:00
親の家に住み、親から貰った服を着て、親の買ってあげた食べ物を食べながら悪態をつく矛盾は何処から来るのか?
答えはこうである。
彼らは自分で望んでここに生まれてきたことを忘れており、別の世界に魂だけで存在していたころの自由に帰ろうとしているのだ。その別の世界が垣間見えるものに夢中になるが、現実に帰ると相も変わらずなことに心底うんざりする。親など最も現実を反映しているからなおさらだ。だが、思春期ぐらいの子供は、そろそろ自由を取り戻すための方法を模索し始めるころだ。そこにも邪魔の入らない思考空間が必要なのであり、単に現実逃避に見えるようでも、現実に対処しようとしはじめている部分がある。そして現実逃避という自由への渇望にとどまらず、自由の獲得へと歩みを進めてゆく時、彼は自己を拡大してゆくのだ。この過程で恐怖に支配されると、自己を縮小することによってしか現実に対処することが出来なくなってしまう。その、多くの大人がはまり込んでいる罠にみすみすはまってほしくないので、私は現実が厳しいとか、罰があたるとか、そんなだといずれ不幸になるとかいう説き方をしないのである。彼らはこのまま怖れることなく生きてゆけば良いのだ。だがいずれは学びのための痛みは知ることになるだろう。それでも決して恐れてはならないのだ。
広い見方をすると、地球の一部であるにもかかわらず、その恩恵を忘れている人間はみな、思春期の子供と変わらないのではないだろうか。人も成熟すれば地球と一体となった日々を送れるようになる。地球とは便宜上そう言っただけで、本当は宇宙と置き換えても良い。全体とも言う。全体の一部が全体を呪っても仕方ないのである。それよりも全体を理解することにより、その構造に精通することが肝要だ。その構造について私の理解していることを書くだけでも一生かかるので書かないが、それは多くの人が認識しているような形の物ではない。また、多くの人は構造について考えたこともないだろう。それはひとくちで言えば複雑かつシンプルな構造だ。それを描写するには無限の時間が必要だが、それを生きるには一瞬も必要ではない。禅の考案をやっているのではない。事実そうなのだ。
]]>
-
ラッキーの散歩
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-29
昨日の夕方出掛ける前と、今朝帰ってくる前に菊池日出夫氏のところの犬、ラッキーを散歩させて来た。ちなみにこれが昨日のラッキー(の顔)。散歩してフードも食べて、やっと落ち着きました、という顔をしている。カメラを向けた時目線をくれていたのだが、すぐに目を伏せてしまった。氏の絵本のファンの方は、「こんなだったっけ?」と思われるだろう。絵本に出て来るラッキーとは大分違う筈である。絵本の中のラッキーは一代目、それから二代目、三代目を経て、このラッキーが四代目なのだ。変わらないタッチ、変わらないキャラクター、そして変わらない動物の友達。それが氏の作品の魅力でもある。ラッキーはすっかり私になついてしまった。年中顔を出しているので当たり前なのだが、一緒に散歩したり、食事の世話をするようになってからは、私のほうでも大切な友達だと思って接するようになった。「相性がいいんだよ」と言われたが、どうなのだろう。それでも散歩の途中にラッキーに話しかけたりしている。「夏はここに、すごくでっかい蛇がいたんねえ」ラッキーはちらとこちらを見るが、もちろん何も言わない。今日はフードのほかに好物のちくわもあげてきた。見ていると、食べたいくせに遠慮して食べないので、「食べな」と言ってわざと姿を消す。他の生きものたちもいるので、その世話をしてまた顔を出すと、さっと定位置に戻って「良い子にしてたよ」みたいな顔をするが、食事はすっかりたいらげているのが可笑しい。犬は従順で健気な生き物だ。この先ラッキーとどれだけの思い出が作れるだろう。
エッセイ
peach
2013-09-29T16:36:26+09:00
ちなみにこれが昨日のラッキー(の顔)。散歩してフードも食べて、やっと落ち着きました、という顔をしている。カメラを向けた時目線をくれていたのだが、すぐに目を伏せてしまった。
氏の絵本のファンの方は、「こんなだったっけ?」と思われるだろう。絵本に出て来るラッキーとは大分違う筈である。絵本の中のラッキーは一代目、それから二代目、三代目を経て、このラッキーが四代目なのだ。変わらないタッチ、変わらないキャラクター、そして変わらない動物の友達。それが氏の作品の魅力でもある。
ラッキーはすっかり私になついてしまった。年中顔を出しているので当たり前なのだが、一緒に散歩したり、食事の世話をするようになってからは、私のほうでも大切な友達だと思って接するようになった。「相性がいいんだよ」と言われたが、どうなのだろう。それでも散歩の途中にラッキーに話しかけたりしている。
「夏はここに、すごくでっかい蛇がいたんねえ」
ラッキーはちらとこちらを見るが、もちろん何も言わない。
今日はフードのほかに好物のちくわもあげてきた。見ていると、食べたいくせに遠慮して食べないので、「食べな」と言ってわざと姿を消す。他の生きものたちもいるので、その世話をしてまた顔を出すと、さっと定位置に戻って「良い子にしてたよ」みたいな顔をするが、食事はすっかりたいらげているのが可笑しい。
犬は従順で健気な生き物だ。この先ラッキーとどれだけの思い出が作れるだろう。
]]>
-
草刈りのことなど
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-28
夕方から朝にかけて出かけなければならないが、伸びすぎた堀の草を刈らねばならず、午前中から昼にかけてざっとやってしまった。しっかり刈りこんでおくと、待ってましたとばかりに他の植物が生えてきたりする。だからやるたびにいちいち植生が違うことに気づく。それは結構面白いことだ。自然を好きな分、自然豊かな地に住むにはそれなりの苦労が伴うのは仕方のないことかもしれない。虫もいろいろいる。今日はカマキリやキリギリスの類が多く見受けられた。休みで子供たちがいるので、眠っておこうと思ったのに騒がしかったのも、草刈りをした理由だ。もっとやりたいところがあるし、植え込みや何かも切らなければならないところが多いのだが、それはまた次回。出がけに菊池さんのところのラッキーを散歩させたりすることになっている。聞きわけのいい子なので助かるが、前回から少し時間がたっているのでまた人見知りしないだろうか?まずは私の匂いをかいでから安心して、リラックスするのだろうか。今頃は主人が出かけてしまい、不安になっていないだろうか?そんなことを考える。
エッセイ
peach
2013-09-28T14:01:30+09:00
しっかり刈りこんでおくと、待ってましたとばかりに他の植物が生えてきたりする。だからやるたびにいちいち植生が違うことに気づく。それは結構面白いことだ。自然を好きな分、自然豊かな地に住むにはそれなりの苦労が伴うのは仕方のないことかもしれない。虫もいろいろいる。今日はカマキリやキリギリスの類が多く見受けられた。
休みで子供たちがいるので、眠っておこうと思ったのに騒がしかったのも、草刈りをした理由だ。もっとやりたいところがあるし、植え込みや何かも切らなければならないところが多いのだが、それはまた次回。
出がけに菊池さんのところのラッキーを散歩させたりすることになっている。聞きわけのいい子なので助かるが、前回から少し時間がたっているのでまた人見知りしないだろうか?まずは私の匂いをかいでから安心して、リラックスするのだろうか。今頃は主人が出かけてしまい、不安になっていないだろうか?そんなことを考える。
]]>
-
夢、宇宙、虫の声
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-27
最近一晩に何回も同じ夢を見ることがある。朝起きてある用事をしようとするのだが、どうしても眠くなってまた眠ってしまう。しかしまた目覚めて、「さっき起きたのは夢だったのか」と気付き、今度こそと布団から抜け出す。さてその用事を済ませなければ、と奮起するが、急に眠気が襲ってきて意識が遠くなる。暫くすると目覚めて、二回も同じ夢を見ていたんだと気付く。そしてまた一念発起して用事を片付けようとしはじめると、また意識が遠くなり、また目覚める。これを5~6回繰り返し、やっとのことで、本当に目が覚める。今まで何回も起床したのが全て夢だったと気付く。実際に一度も起床していなかったのだ。そして夢で見た用事というのは、実際には存在していなかった。夢の見方も以前とは大分違ってきているようだ。飛ぶ夢は数限りなく見ていたが、最近はあまり見なくなった。少年だったころからだんだんと飛ぶ訓練をして来た。最初は下手だったし、落ちる恐怖があったが、最近では夢だと当たり前に飛べるようになった。それが飛ぶ夢をあまり見なくなったというのは、そういう願望も無くなったのだろうか。それと、明晰夢のようなものも少なくなった気がする。夢だと分かってみている夢。私の場合、眠っていない状態で目を閉じていても、次第に外界がはっきりと見え出して、体の中から意識だけが抜け出ていくのが日常的にあった。これも少年のころは、はじめ足などが部分的に持ちあがってくるのだが、成人するころには全身が抜け出すようになった。はじめは抜け出した体を制御することが出来ず、部屋の中をあちこち飛び回った。ほおっておくと何処までも上昇してしまい、上空200メートルくらいで怖くなって、苦労して戻ったのを覚えている。この体は屋根や壁を通り抜けることが出来、どんなスピードでも動ける。しかし地面の中には気味が悪いので潜ったことはなかったが。そしてどんなに遠くへも行くことが出来、ここが宇宙の中心だろうというところまで行ったことがある。そこでは美しくも凄まじい物を見たが、ここには書かない。なぜなら、読む人がそれぞれたどり着く宇宙の中心は、その人だけのものであってほしく、固定観念を持つべきではないと思うからだ。しかし、宇宙も結局は自分が毎瞬ごとに作り出しているものなのだ。いつも自分の中にあり、それを外側に見ているに過ぎない。人間の目とは何だろう。目があるから認識しているようだが、果たして我々に本当に目なんてものがあるのだ..
エッセイ
peach
2013-09-27T21:55:52+09:00
夢の見方も以前とは大分違ってきているようだ。飛ぶ夢は数限りなく見ていたが、最近はあまり見なくなった。少年だったころからだんだんと飛ぶ訓練をして来た。最初は下手だったし、落ちる恐怖があったが、最近では夢だと当たり前に飛べるようになった。それが飛ぶ夢をあまり見なくなったというのは、そういう願望も無くなったのだろうか。それと、明晰夢のようなものも少なくなった気がする。夢だと分かってみている夢。私の場合、眠っていない状態で目を閉じていても、次第に外界がはっきりと見え出して、体の中から意識だけが抜け出ていくのが日常的にあった。これも少年のころは、はじめ足などが部分的に持ちあがってくるのだが、成人するころには全身が抜け出すようになった。はじめは抜け出した体を制御することが出来ず、部屋の中をあちこち飛び回った。ほおっておくと何処までも上昇してしまい、上空200メートルくらいで怖くなって、苦労して戻ったのを覚えている。この体は屋根や壁を通り抜けることが出来、どんなスピードでも動ける。しかし地面の中には気味が悪いので潜ったことはなかったが。そしてどんなに遠くへも行くことが出来、ここが宇宙の中心だろうというところまで行ったことがある。そこでは美しくも凄まじい物を見たが、ここには書かない。なぜなら、読む人がそれぞれたどり着く宇宙の中心は、その人だけのものであってほしく、固定観念を持つべきではないと思うからだ。
しかし、宇宙も結局は自分が毎瞬ごとに作り出しているものなのだ。いつも自分の中にあり、それを外側に見ているに過ぎない。人間の目とは何だろう。目があるから認識しているようだが、果たして我々に本当に目なんてものがあるのだろうか。あえて目があるということにしているだけなのではないだろうか。「無眼耳鼻舌身意」と誰か言っていなかったろうか。
秋の虫が鳴いている。鳴き方の異なる数種類の虫の声だ。蟋蟀だったり何かだったりするのだろうが、どれでもいいことだ。次第に夜が深くなってゆく。空気は冷たすぎ、窓を閉めた。
]]>
-
娘のことなど
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-26
夕方家に帰る時、向こうから娘が歩いてくるのが見えた。娘の方が先に角を曲がり、家に着いていたが、帰るなり「駅の前にいなかった?」と聞かれた。気付いていたらしい。娘は高校から帰って来たところだった。本人の希望で美術を専攻しているのだが、これも私の勧めたことではない。小さい頃から勉強という勉強が嫌いで、私たちも無理にさせず、好きなことだけやらせていた。そして絵を描くことだけは好きだったらしく、ならばそうしなさいと、今に至っているだけだ。子供をコントロールしようという気は持ったことがなかった。とくに何も期待していなかったし、好きにやればいいと思っていたからだ。将来に対し不安材料を並べて、恐怖心を与えるのが一番よくないと思っていた。のびのびと新鮮に今を体験することが出来なくなってしまうからだ。結局、放任するより他に何もしてやっていないが、健やかだ。それで充分だ。子供だけでなく、誰に対しても、したいようにさせている。笑いたければ笑えばいい。怒りたければ起こればいい。泣きたければ…というふうに。善の定義など存在しない。ならばなぜ人の言動に善し悪しをつけるのか。縛られると人は縛られまいと頑なになる。そして周りを縛ることで、自分だけは自由でいようとする。ところがその自由は錯覚で、維持するのに大変な労力を必要とする代物だ。縛る者は縛られるのだ。勝ち続けるために行われる、あらゆる醜悪な言動。それをしなければ勝てないなら、勝つことに意味などない。花はただ咲いて散るだけ。人もなぜそのように生きないのだろう?
エッセイ
peach
2013-09-26T21:57:06+09:00
娘は高校から帰って来たところだった。本人の希望で美術を専攻しているのだが、これも私の勧めたことではない。小さい頃から勉強という勉強が嫌いで、私たちも無理にさせず、好きなことだけやらせていた。そして絵を描くことだけは好きだったらしく、ならばそうしなさいと、今に至っているだけだ。
子供をコントロールしようという気は持ったことがなかった。とくに何も期待していなかったし、好きにやればいいと思っていたからだ。将来に対し不安材料を並べて、恐怖心を与えるのが一番よくないと思っていた。のびのびと新鮮に今を体験することが出来なくなってしまうからだ。結局、放任するより他に何もしてやっていないが、健やかだ。それで充分だ。
子供だけでなく、誰に対しても、したいようにさせている。笑いたければ笑えばいい。怒りたければ起こればいい。泣きたければ…というふうに。善の定義など存在しない。ならばなぜ人の言動に善し悪しをつけるのか。縛られると人は縛られまいと頑なになる。そして周りを縛ることで、自分だけは自由でいようとする。ところがその自由は錯覚で、維持するのに大変な労力を必要とする代物だ。縛る者は縛られるのだ。
勝ち続けるために行われる、あらゆる醜悪な言動。それをしなければ勝てないなら、勝つことに意味などない。花はただ咲いて散るだけ。人もなぜそのように生きないのだろう?
]]>
-
ラッキーのことなど
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-25
今朝眠気に耐えつつ危なっかしい運転で帰り、いったんぐっすり眠ってから目覚めると、菊池さんから電話で、月末ちかくにラッキーや生き物たちの世話をまた頼む、とのことだった。ラッキーは菊池さんの絵本に必ずといっていいほど出てくる氏の飼い犬で、今はその4代目がいるのだ。先月から氏の遠出が多く、その時には私がラッキーの散歩や餌やり、鳩やチャボなどの世話をしている。ラッキーは以前はよく吠えたものだが、今ではすっかり私になついたようだ。そしてなつかれると可愛くなってくる。愛犬家の気持ちが少しわかった気がした。鳩も朝出て行ったのがちゃんと夜には帰っていたりして感心した。今度は二日にわたる世話だけだが、なんとなくラッキーが待っているような気がして楽しみだ。話の途中で、石川えりこさんから個展の案内が来てないか?と聞かれたが、心当たりがなかったので「来てないです」と答えたが、よく見たらメールで来ていた。仲間に転送願うとのこと、すぐにグループ風山村のメンバーに転送した。はがきに刷られた鉛筆画から、個展の内容が素晴らしいのが、行く前から分かった。10月7日(月)~12日(土)ギャラリーハウスマヤ +マヤ2で開催されるので、関心のある方は是非見に行かれると良いと思う。今日も曇っているが、これからまた出かける予定だ。ここのところ楽しいことや、中・軽度のショックを受けるような出来事が折り重なっている。いろいろな変化がどっと押し寄せてきているかのようだが、何事もゆったりとした心持ちで取り組めればと願っている。※風山村=菊池日出夫氏主宰のアーテイストグループ。石川えりこ氏とザ・チョイスの年度賞受賞者などによって構成される。2012年パシフィコ横浜にて図書館総合展に出展し好評を得た。
エッセイ
peach
2013-09-25T15:36:32+09:00
話の途中で、石川えりこさんから個展の案内が来てないか?と聞かれたが、心当たりがなかったので「来てないです」と答えたが、よく見たらメールで来ていた。仲間に転送願うとのこと、すぐにグループ風山村のメンバーに転送した。はがきに刷られた鉛筆画から、個展の内容が素晴らしいのが、行く前から分かった。10月7日(月)~12日(土)ギャラリーハウスマヤ +マヤ2で開催されるので、関心のある方は是非見に行かれると良いと思う。
今日も曇っているが、これからまた出かける予定だ。ここのところ楽しいことや、中・軽度のショックを受けるような出来事が折り重なっている。いろいろな変化がどっと押し寄せてきているかのようだが、何事もゆったりとした心持ちで取り組めればと願っている。
※風山村=菊池日出夫氏主宰のアーテイストグループ。石川えりこ氏とザ・チョイスの年度賞受賞者などによって構成される。2012年パシフィコ横浜にて図書館総合展に出展し好評を得た。
]]>
-
今日は曇りか。
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-23
やはり昨日から曇っていたのは一時的なものではなかったらしい。深夜に外出したとき雨が降っていて、車のワイパーを動かさねばならなかった。今日も昼下がりのこの時間にしてはとても暗い。今度、私の個展を企画してくれるギャラリーは、地元小川町の「家具スタジオ 木の香」というところで、もとは家具の製造元が製品を展示販売しているところだったが、今はアートや民芸なども展示する多目的ギャラリーになっている。今日は運営者のところへデータを提出に行ってきた。額やオリジナルグッズの手配はほぼ済んでいるし、お客さんやメディアへのアプローチは基本的にはスタジオがやってくれる。あとは私が声をかけたい人をリストアップしておけばよい。余力があれば気軽に買えるような小品も充実させたいとは思っている。個展販売用に、友人が私のオリジナル作品を買い物バッグにプリントしてくれており、先日その一部を見せてもらったが、とても美しい仕上がりだった。こちらは来場の方にお勧めしてくれるよう、スタジオにも頼んである。個展のスタートは11月22日からだが、案内状が出来上がったら詳細を載せたい。空が暗くて憂鬱な感じだが、これからまた出かけなくてはならない。
エッセイ
peach
2013-09-23T14:25:38+09:00
今度、私の個展を企画してくれるギャラリーは、地元小川町の「家具スタジオ 木の香」というところで、もとは家具の製造元が製品を展示販売しているところだったが、今はアートや民芸なども展示する多目的ギャラリーになっている。今日は運営者のところへデータを提出に行ってきた。額やオリジナルグッズの手配はほぼ済んでいるし、お客さんやメディアへのアプローチは基本的にはスタジオがやってくれる。あとは私が声をかけたい人をリストアップしておけばよい。余力があれば気軽に買えるような小品も充実させたいとは思っている。
個展販売用に、友人が私のオリジナル作品を買い物バッグにプリントしてくれており、先日その一部を見せてもらったが、とても美しい仕上がりだった。こちらは来場の方にお勧めしてくれるよう、スタジオにも頼んである。
個展のスタートは11月22日からだが、案内状が出来上がったら詳細を載せたい。
空が暗くて憂鬱な感じだが、これからまた出かけなくてはならない。
]]>
-
彼岸の静かな午後
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-22
彼岸だが日中はまだ暑い。仏のある親戚に顔を出しておこうと街中を走っていたが、実にいい天気だった。彼岸というのも、仏教で葬儀を行う家では毎回墓参りや仏前供養などがあるのだが、こういう風習もやがては形を変えてゆくだろう。良い悪いの問題ではなく、自然のなりゆきとして。親戚の玄関先におがくずの入った飼育ケースがあった。叔父さんに聞いてみると、従兄弟がカブトムシの幼虫の飼育をしているのだという。大きめのケースだったし、土やおがくずもたっぷりと入っていた。最近は幼虫飼育用の土も売っているようだ。私といえば夏場にカブトムシやクワガタをたくさん取る機会があったので、小さい飼育ケース二つを利用して、市販の昆虫ゼリーを与えていた。カブトムシはすごい勢いでこれをすする。吸っている音が聞こえるほどだ。息子はいろいろな味のゼリーをあげたとき、どれを一番よく食べるか、という子供らしい研究をして、宿題を提出していたようだ。たしか一位はバナナ味だったと言っていたが、本当かどうかわからない。8月も終わるころ、虫たちを飼育ケースの中で死なせるのは忍びなかったので、一斉に放してやった。今年は久しぶりに飼ってみたのだが、来年は見つけてもそのままにしておいてやろうかと思っている。だが、もしミヤマクワガタだったら捕まえてくるかもしれない。というのも、この地域では最近、ノコギリクワガタはよく見るが、ミヤマはいなくなってしまったのである。温暖化で北上しているとも聞くが。それでミヤマを見つけたらきっと懐かしいんじゃないかと思う。子供のころの感覚で、条件反射的に捕まえてしまうだろう。空が少し曇ってきた、しばらく天気はいいように聞いていたが、どうなるのか。どこかで木を切っているのだろう、遠くでチェーンソーを使う音が聞こえてきた。
エッセイ
peach
2013-09-22T13:21:08+09:00
親戚の玄関先におがくずの入った飼育ケースがあった。叔父さんに聞いてみると、従兄弟がカブトムシの幼虫の飼育をしているのだという。大きめのケースだったし、土やおがくずもたっぷりと入っていた。最近は幼虫飼育用の土も売っているようだ。私といえば夏場にカブトムシやクワガタをたくさん取る機会があったので、小さい飼育ケース二つを利用して、市販の昆虫ゼリーを与えていた。カブトムシはすごい勢いでこれをすする。吸っている音が聞こえるほどだ。息子はいろいろな味のゼリーをあげたとき、どれを一番よく食べるか、という子供らしい研究をして、宿題を提出していたようだ。たしか一位はバナナ味だったと言っていたが、本当かどうかわからない。
8月も終わるころ、虫たちを飼育ケースの中で死なせるのは忍びなかったので、一斉に放してやった。今年は久しぶりに飼ってみたのだが、来年は見つけてもそのままにしておいてやろうかと思っている。だが、もしミヤマクワガタだったら捕まえてくるかもしれない。というのも、この地域では最近、ノコギリクワガタはよく見るが、ミヤマはいなくなってしまったのである。温暖化で北上しているとも聞くが。それでミヤマを見つけたらきっと懐かしいんじゃないかと思う。子供のころの感覚で、条件反射的に捕まえてしまうだろう。
空が少し曇ってきた、しばらく天気はいいように聞いていたが、どうなるのか。
どこかで木を切っているのだろう、遠くでチェーンソーを使う音が聞こえてきた。
]]>
-
去年の今頃
https://shizuka-machi.blog.ss-blog.jp/2013-09-21-1
実はブログを休んでいる間も、何度も更新しようかと考えたことはあったのだが、そのたびに制作するほうにそれてしまって、出来なかった。とくに去年の今頃は目論見どおりにいかなかった季節だった。去年の今頃は、ある出版社と幼児向け絵本のラフのやりとりをしていたのだった。あの頃はそういう絵本がいろいろ制約が厳しいものだとは、頭ではわかっていても、ついつい自分の幼児向けでない部分、素の部分が出てしまい、結局3本のラフが会議で通らなかった。それで、自分を幼児向けに変えようとまでは思わなかったので、そのまままたいつか、ということにしてある。絵本という形式が嫌なのではない。結局、描くとしても全く素のままで描ければそれに越したことはないわけで、私は絵本の形式ではまだその術を見出していないということなのだ。いつか一冊でも気に入った、自分の思い通りのものを作ってみたいという気持ちはある。親しくしている絵本作家の菊池日出夫氏は、まさに天性が絵本向けなのだ。いつもそばで見ていてそう思う。朴訥というか、影があまりない、明るい人だ。そしてすごく当たり前のモラルを真正面から良しと出来るような、屈折したところが全くない人なのだ。たぶん一緒にいても楽しいのは、私が氏とは違う性格だからなんだと思う。そういうこともよく見えてきた。そんな風に、去年から今年にかけては、もう一度素の自分に戻ってゆこうとする旅だった気がする。そして私は今の自分が好きだ。
エッセイ
peach
2013-09-21T19:05:49+09:00
去年の今頃は、ある出版社と幼児向け絵本のラフのやりとりをしていたのだった。あの頃はそういう絵本がいろいろ制約が厳しいものだとは、頭ではわかっていても、ついつい自分の幼児向けでない部分、素の部分が出てしまい、結局3本のラフが会議で通らなかった。それで、自分を幼児向けに変えようとまでは思わなかったので、そのまままたいつか、ということにしてある。
絵本という形式が嫌なのではない。結局、描くとしても全く素のままで描ければそれに越したことはないわけで、私は絵本の形式ではまだその術を見出していないということなのだ。いつか一冊でも気に入った、自分の思い通りのものを作ってみたいという気持ちはある。
親しくしている絵本作家の菊池日出夫氏は、まさに天性が絵本向けなのだ。いつもそばで見ていてそう思う。朴訥というか、影があまりない、明るい人だ。そしてすごく当たり前のモラルを真正面から良しと出来るような、屈折したところが全くない人なのだ。たぶん一緒にいても楽しいのは、私が氏とは違う性格だからなんだと思う。そういうこともよく見えてきた。
そんな風に、去年から今年にかけては、もう一度素の自分に戻ってゆこうとする旅だった気がする。そして私は今の自分が好きだ。
]]>