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石川えりこ展 「炭坑のある町でそだった」 [エッセイ]

昨日青山のギャラリーMayaで、石川えりこさんの個展のオープニングレセプションに出席して来た。

石川さんの作品は自由闊達な筆遣いが特徴だが、今回のシリーズは鉛筆画。鉛筆画というと色彩を使ったものより軽いものを想像しがちだが、全く違った。むしろ、石川さんの育った炭坑のある町、という子供時代の環境がバックグラウンドになって、より一層の深みと迫力をもって語りかけてくるのである。以前、大江健三郎氏がTVで、バックグラウンドを持っている作家は強いんです、と言っていた。その意味が、ひとりの画家を通じてわかった気がした。

親しくしている菊池日出夫さんにしても、長野県佐久市で過ごした少年時代が一貫したモチーフになっていて、それが見る人にある種共通した懐かしさを感じさせるのだろう。根強いファン層を持っているのも頷ける。

MayaにはMaya2という別室があって、そこに案内してくれたのは篠崎三朗さんだった。篠崎さんには横浜の展示会のときにお世話になった。「その節は…」などと挨拶しながら入るとアーテイストと業界関係者で超満員だった。すでに数名の知人も来ており近況の報告をし合ったり、いろいろな人を紹介してもらった。こういう集まりは本当に面白い人でいっぱいだ。とくにアーティストは著名人でも垣根がないのが良い。子供のように自由で気さく、つまらないお世辞を言う必要もなければ、緊張することもない。それぞれがそれぞれをありのままにふるまわせてくれる、そういう空間があった。

結局レセプションの後も外苑前のカフェで楽しく盛り上がり、帰って来た。ときどきこういう賑やかな集まりにゆくのはいいものだ。そしてどの人もみな、また会いたい人たちだ。








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宇宙の構造を思う [エッセイ]

私はほとんど子供を叱ることがないが、それでも子供の方は親をこの上なくうざったい存在だと思っているようで、平気で酷い言葉を浴びせて来る。とくに自分だけの世界に入り込んでいる時は邪魔されたくないようだ。私がそうだったからわかる。
親の家に住み、親から貰った服を着て、親の買ってあげた食べ物を食べながら悪態をつく矛盾は何処から来るのか?

答えはこうである。
彼らは自分で望んでここに生まれてきたことを忘れており、別の世界に魂だけで存在していたころの自由に帰ろうとしているのだ。その別の世界が垣間見えるものに夢中になるが、現実に帰ると相も変わらずなことに心底うんざりする。親など最も現実を反映しているからなおさらだ。だが、思春期ぐらいの子供は、そろそろ自由を取り戻すための方法を模索し始めるころだ。そこにも邪魔の入らない思考空間が必要なのであり、単に現実逃避に見えるようでも、現実に対処しようとしはじめている部分がある。そして現実逃避という自由への渇望にとどまらず、自由の獲得へと歩みを進めてゆく時、彼は自己を拡大してゆくのだ。この過程で恐怖に支配されると、自己を縮小することによってしか現実に対処することが出来なくなってしまう。その、多くの大人がはまり込んでいる罠にみすみすはまってほしくないので、私は現実が厳しいとか、罰があたるとか、そんなだといずれ不幸になるとかいう説き方をしないのである。彼らはこのまま怖れることなく生きてゆけば良いのだ。だがいずれは学びのための痛みは知ることになるだろう。それでも決して恐れてはならないのだ。

広い見方をすると、地球の一部であるにもかかわらず、その恩恵を忘れている人間はみな、思春期の子供と変わらないのではないだろうか。人も成熟すれば地球と一体となった日々を送れるようになる。地球とは便宜上そう言っただけで、本当は宇宙と置き換えても良い。全体とも言う。全体の一部が全体を呪っても仕方ないのである。それよりも全体を理解することにより、その構造に精通することが肝要だ。その構造について私の理解していることを書くだけでも一生かかるので書かないが、それは多くの人が認識しているような形の物ではない。また、多くの人は構造について考えたこともないだろう。それはひとくちで言えば複雑かつシンプルな構造だ。それを描写するには無限の時間が必要だが、それを生きるには一瞬も必要ではない。禅の考案をやっているのではない。事実そうなのだ。

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ラッキーの散歩 [エッセイ]

昨日の夕方出掛ける前と、今朝帰ってくる前に菊池日出夫氏のところの犬、ラッキーを散歩させて来た。

ちなみにこれが昨日のラッキー(の顔)。散歩してフードも食べて、やっと落ち着きました、という顔をしている。カメラを向けた時目線をくれていたのだが、すぐに目を伏せてしまった。

ラッキーtmbg.jpg

氏の絵本のファンの方は、「こんなだったっけ?」と思われるだろう。絵本に出て来るラッキーとは大分違う筈である。絵本の中のラッキーは一代目、それから二代目、三代目を経て、このラッキーが四代目なのだ。変わらないタッチ、変わらないキャラクター、そして変わらない動物の友達。それが氏の作品の魅力でもある。

ラッキーはすっかり私になついてしまった。年中顔を出しているので当たり前なのだが、一緒に散歩したり、食事の世話をするようになってからは、私のほうでも大切な友達だと思って接するようになった。「相性がいいんだよ」と言われたが、どうなのだろう。それでも散歩の途中にラッキーに話しかけたりしている。
「夏はここに、すごくでっかい蛇がいたんねえ」
ラッキーはちらとこちらを見るが、もちろん何も言わない。

今日はフードのほかに好物のちくわもあげてきた。見ていると、食べたいくせに遠慮して食べないので、「食べな」と言ってわざと姿を消す。他の生きものたちもいるので、その世話をしてまた顔を出すと、さっと定位置に戻って「良い子にしてたよ」みたいな顔をするが、食事はすっかりたいらげているのが可笑しい。

犬は従順で健気な生き物だ。この先ラッキーとどれだけの思い出が作れるだろう。

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草刈りのことなど [エッセイ]

夕方から朝にかけて出かけなければならないが、伸びすぎた堀の草を刈らねばならず、午前中から昼にかけてざっとやってしまった。

しっかり刈りこんでおくと、待ってましたとばかりに他の植物が生えてきたりする。だからやるたびにいちいち植生が違うことに気づく。それは結構面白いことだ。自然を好きな分、自然豊かな地に住むにはそれなりの苦労が伴うのは仕方のないことかもしれない。虫もいろいろいる。今日はカマキリやキリギリスの類が多く見受けられた。

休みで子供たちがいるので、眠っておこうと思ったのに騒がしかったのも、草刈りをした理由だ。もっとやりたいところがあるし、植え込みや何かも切らなければならないところが多いのだが、それはまた次回。

出がけに菊池さんのところのラッキーを散歩させたりすることになっている。聞きわけのいい子なので助かるが、前回から少し時間がたっているのでまた人見知りしないだろうか?まずは私の匂いをかいでから安心して、リラックスするのだろうか。今頃は主人が出かけてしまい、不安になっていないだろうか?そんなことを考える。
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夢、宇宙、虫の声 [エッセイ]

最近一晩に何回も同じ夢を見ることがある。朝起きてある用事をしようとするのだが、どうしても眠くなってまた眠ってしまう。しかしまた目覚めて、「さっき起きたのは夢だったのか」と気付き、今度こそと布団から抜け出す。さてその用事を済ませなければ、と奮起するが、急に眠気が襲ってきて意識が遠くなる。暫くすると目覚めて、二回も同じ夢を見ていたんだと気付く。そしてまた一念発起して用事を片付けようとしはじめると、また意識が遠くなり、また目覚める。これを5~6回繰り返し、やっとのことで、本当に目が覚める。今まで何回も起床したのが全て夢だったと気付く。実際に一度も起床していなかったのだ。そして夢で見た用事というのは、実際には存在していなかった。

夢の見方も以前とは大分違ってきているようだ。飛ぶ夢は数限りなく見ていたが、最近はあまり見なくなった。少年だったころからだんだんと飛ぶ訓練をして来た。最初は下手だったし、落ちる恐怖があったが、最近では夢だと当たり前に飛べるようになった。それが飛ぶ夢をあまり見なくなったというのは、そういう願望も無くなったのだろうか。それと、明晰夢のようなものも少なくなった気がする。夢だと分かってみている夢。私の場合、眠っていない状態で目を閉じていても、次第に外界がはっきりと見え出して、体の中から意識だけが抜け出ていくのが日常的にあった。これも少年のころは、はじめ足などが部分的に持ちあがってくるのだが、成人するころには全身が抜け出すようになった。はじめは抜け出した体を制御することが出来ず、部屋の中をあちこち飛び回った。ほおっておくと何処までも上昇してしまい、上空200メートルくらいで怖くなって、苦労して戻ったのを覚えている。この体は屋根や壁を通り抜けることが出来、どんなスピードでも動ける。しかし地面の中には気味が悪いので潜ったことはなかったが。そしてどんなに遠くへも行くことが出来、ここが宇宙の中心だろうというところまで行ったことがある。そこでは美しくも凄まじい物を見たが、ここには書かない。なぜなら、読む人がそれぞれたどり着く宇宙の中心は、その人だけのものであってほしく、固定観念を持つべきではないと思うからだ。

しかし、宇宙も結局は自分が毎瞬ごとに作り出しているものなのだ。いつも自分の中にあり、それを外側に見ているに過ぎない。人間の目とは何だろう。目があるから認識しているようだが、果たして我々に本当に目なんてものがあるのだろうか。あえて目があるということにしているだけなのではないだろうか。「無眼耳鼻舌身意」と誰か言っていなかったろうか。

秋の虫が鳴いている。鳴き方の異なる数種類の虫の声だ。蟋蟀だったり何かだったりするのだろうが、どれでもいいことだ。次第に夜が深くなってゆく。空気は冷たすぎ、窓を閉めた。

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娘のことなど [エッセイ]

夕方家に帰る時、向こうから娘が歩いてくるのが見えた。娘の方が先に角を曲がり、家に着いていたが、帰るなり「駅の前にいなかった?」と聞かれた。気付いていたらしい。

娘は高校から帰って来たところだった。本人の希望で美術を専攻しているのだが、これも私の勧めたことではない。小さい頃から勉強という勉強が嫌いで、私たちも無理にさせず、好きなことだけやらせていた。そして絵を描くことだけは好きだったらしく、ならばそうしなさいと、今に至っているだけだ。

子供をコントロールしようという気は持ったことがなかった。とくに何も期待していなかったし、好きにやればいいと思っていたからだ。将来に対し不安材料を並べて、恐怖心を与えるのが一番よくないと思っていた。のびのびと新鮮に今を体験することが出来なくなってしまうからだ。結局、放任するより他に何もしてやっていないが、健やかだ。それで充分だ。

子供だけでなく、誰に対しても、したいようにさせている。笑いたければ笑えばいい。怒りたければ起こればいい。泣きたければ…というふうに。善の定義など存在しない。ならばなぜ人の言動に善し悪しをつけるのか。縛られると人は縛られまいと頑なになる。そして周りを縛ることで、自分だけは自由でいようとする。ところがその自由は錯覚で、維持するのに大変な労力を必要とする代物だ。縛る者は縛られるのだ。

勝ち続けるために行われる、あらゆる醜悪な言動。それをしなければ勝てないなら、勝つことに意味などない。花はただ咲いて散るだけ。人もなぜそのように生きないのだろう?

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ラッキーのことなど [エッセイ]

今朝眠気に耐えつつ危なっかしい運転で帰り、いったんぐっすり眠ってから目覚めると、菊池さんから電話で、月末ちかくにラッキーや生き物たちの世話をまた頼む、とのことだった。ラッキーは菊池さんの絵本に必ずといっていいほど出てくる氏の飼い犬で、今はその4代目がいるのだ。先月から氏の遠出が多く、その時には私がラッキーの散歩や餌やり、鳩やチャボなどの世話をしている。ラッキーは以前はよく吠えたものだが、今ではすっかり私になついたようだ。そしてなつかれると可愛くなってくる。愛犬家の気持ちが少しわかった気がした。鳩も朝出て行ったのがちゃんと夜には帰っていたりして感心した。今度は二日にわたる世話だけだが、なんとなくラッキーが待っているような気がして楽しみだ。

話の途中で、石川えりこさんから個展の案内が来てないか?と聞かれたが、心当たりがなかったので「来てないです」と答えたが、よく見たらメールで来ていた。仲間に転送願うとのこと、すぐにグループ風山村のメンバーに転送した。はがきに刷られた鉛筆画から、個展の内容が素晴らしいのが、行く前から分かった。10月7日(月)~12日(土)ギャラリーハウスマヤ +マヤ2で開催されるので、関心のある方は是非見に行かれると良いと思う。

今日も曇っているが、これからまた出かける予定だ。ここのところ楽しいことや、中・軽度のショックを受けるような出来事が折り重なっている。いろいろな変化がどっと押し寄せてきているかのようだが、何事もゆったりとした心持ちで取り組めればと願っている。


※風山村=菊池日出夫氏主宰のアーテイストグループ。石川えりこ氏とザ・チョイスの年度賞受賞者などによって構成される。2012年パシフィコ横浜にて図書館総合展に出展し好評を得た。


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今日は曇りか。 [エッセイ]

やはり昨日から曇っていたのは一時的なものではなかったらしい。深夜に外出したとき雨が降っていて、車のワイパーを動かさねばならなかった。今日も昼下がりのこの時間にしてはとても暗い。

今度、私の個展を企画してくれるギャラリーは、地元小川町の「家具スタジオ 木の香」というところで、もとは家具の製造元が製品を展示販売しているところだったが、今はアートや民芸なども展示する多目的ギャラリーになっている。今日は運営者のところへデータを提出に行ってきた。額やオリジナルグッズの手配はほぼ済んでいるし、お客さんやメディアへのアプローチは基本的にはスタジオがやってくれる。あとは私が声をかけたい人をリストアップしておけばよい。余力があれば気軽に買えるような小品も充実させたいとは思っている。

個展販売用に、友人が私のオリジナル作品を買い物バッグにプリントしてくれており、先日その一部を見せてもらったが、とても美しい仕上がりだった。こちらは来場の方にお勧めしてくれるよう、スタジオにも頼んである。

個展のスタートは11月22日からだが、案内状が出来上がったら詳細を載せたい。

空が暗くて憂鬱な感じだが、これからまた出かけなくてはならない。




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彼岸の静かな午後 [エッセイ]

彼岸だが日中はまだ暑い。仏のある親戚に顔を出しておこうと街中を走っていたが、実にいい天気だった。彼岸というのも、仏教で葬儀を行う家では毎回墓参りや仏前供養などがあるのだが、こういう風習もやがては形を変えてゆくだろう。良い悪いの問題ではなく、自然のなりゆきとして。

親戚の玄関先におがくずの入った飼育ケースがあった。叔父さんに聞いてみると、従兄弟がカブトムシの幼虫の飼育をしているのだという。大きめのケースだったし、土やおがくずもたっぷりと入っていた。最近は幼虫飼育用の土も売っているようだ。私といえば夏場にカブトムシやクワガタをたくさん取る機会があったので、小さい飼育ケース二つを利用して、市販の昆虫ゼリーを与えていた。カブトムシはすごい勢いでこれをすする。吸っている音が聞こえるほどだ。息子はいろいろな味のゼリーをあげたとき、どれを一番よく食べるか、という子供らしい研究をして、宿題を提出していたようだ。たしか一位はバナナ味だったと言っていたが、本当かどうかわからない。

8月も終わるころ、虫たちを飼育ケースの中で死なせるのは忍びなかったので、一斉に放してやった。今年は久しぶりに飼ってみたのだが、来年は見つけてもそのままにしておいてやろうかと思っている。だが、もしミヤマクワガタだったら捕まえてくるかもしれない。というのも、この地域では最近、ノコギリクワガタはよく見るが、ミヤマはいなくなってしまったのである。温暖化で北上しているとも聞くが。それでミヤマを見つけたらきっと懐かしいんじゃないかと思う。子供のころの感覚で、条件反射的に捕まえてしまうだろう。

空が少し曇ってきた、しばらく天気はいいように聞いていたが、どうなるのか。
どこかで木を切っているのだろう、遠くでチェーンソーを使う音が聞こえてきた。


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去年の今頃 [エッセイ]

実はブログを休んでいる間も、何度も更新しようかと考えたことはあったのだが、そのたびに制作するほうにそれてしまって、出来なかった。とくに去年の今頃は目論見どおりにいかなかった季節だった。

去年の今頃は、ある出版社と幼児向け絵本のラフのやりとりをしていたのだった。あの頃はそういう絵本がいろいろ制約が厳しいものだとは、頭ではわかっていても、ついつい自分の幼児向けでない部分、素の部分が出てしまい、結局3本のラフが会議で通らなかった。それで、自分を幼児向けに変えようとまでは思わなかったので、そのまままたいつか、ということにしてある。

絵本という形式が嫌なのではない。結局、描くとしても全く素のままで描ければそれに越したことはないわけで、私は絵本の形式ではまだその術を見出していないということなのだ。いつか一冊でも気に入った、自分の思い通りのものを作ってみたいという気持ちはある。

親しくしている絵本作家の菊池日出夫氏は、まさに天性が絵本向けなのだ。いつもそばで見ていてそう思う。朴訥というか、影があまりない、明るい人だ。そしてすごく当たり前のモラルを真正面から良しと出来るような、屈折したところが全くない人なのだ。たぶん一緒にいても楽しいのは、私が氏とは違う性格だからなんだと思う。そういうこともよく見えてきた。

そんな風に、去年から今年にかけては、もう一度素の自分に戻ってゆこうとする旅だった気がする。そして私は今の自分が好きだ。




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